鏡に映る自分を見詰める。
目を閉じてから右手で頬から顎のラインをなぞり、首の中心に手を当てる。そして、もう1度ゆっくりと目を開けて自分を見る。
「…………効果が薄れてきてる」
鏡に映る自分は、姿かたちは変わっていないが――な亜麻色の髪が、軽く脱色した様に明るくなっていた。
眉間に皺を寄せ、暫くその様を眺めていたが、1つ深く息をつき、台所へと足を向けた。
そのまま、調味料が収められている棚の前まで歩いて行く。
そして、その中に隠されている小さな小瓶を取り出し蓋を開けた。
小瓶を傾け、中に入っていた粉――薬の3分の1程を、
一気に飲み込んだ。
「……ぐっ、はぁっ、はっ、……う゛ぁぁぁっ」
身体中に激痛が走る。
両腕で体を抱きしめながら、壁に背中を付けてズルズルと崩れ落ちる。
体を丸め、痛みが引くのを待ち続ける。
秒1がとても長く感じた。
グッと唇を噛み、呼吸を止めていると――激痛が徐々に薄らいでいった。
ここまで来れば……。
浅い呼吸を何度か繰り返しながら、私は膝に手を当てながら立ち上がった。
「ふぅーっ……流石に、今回はキツかった」
髪の先を見ると――見慣れた亜麻色の髪に戻っていた。
汗でぴっとりとくっ付いた前髪を、指先で横にずらしながら一息付いた時――。
「たっだいまぁ〜!」
子供特有の甲高い声が、玄関を開ける音と共に聞こえて来た。
私は服の乱れを素早く直し、深呼吸をしてから背筋を伸ばす。
トタトタと廊下を走る音が聞こえ、バタンと扉が開かれると、
「うあ゛ーっ。つ・か・れ・たぁ〜」
小さくなったトオル様が、肩をコキコキ鳴らしながら部屋に入って来た。小さいのに、その仕草はオバサンくさい。
トオル様は、ジーク作のうさちゃんクッションが付いている椅子の背凭れに、脱いだ上着をバサリと掛けた。
朝早くにレイさんと一緒に訓練場へ行っていたのだが、1人で帰って来た所を見ると、途中で別れて来たらしい。
「お帰りなさいませ、トオル様」
後ろから声を掛けると、小さな紙袋を持ったトオル様が振り向いて「だたいま」と言った。
「あっ、デュレインさん、零がお昼ご飯はいらないって言ってた」
「分かりました」
何でも、ルルと2人でお買い物に出掛けたらしい。何時の間に仲良くなったのやら。
「トオル様は、直ぐに昼食をお取りになられますか?」
「うぅ〜ん。……いや、まだいいや。訓練場を出る前に、ルルにお菓子を貰って食べてたから、今はそんなにお腹が減って無いんだ」
「そうですか、分かりました」
私が頷くと、トオル様は鼻歌を歌いながら椅子に座り、持っていた紙袋の中を漁り出した。
食事はいらないが、お菓子は食べたいらしい。
そんなトオル様を尻目に、私は掌の中に隠していた小瓶をそっと棚の中に仕舞い込んだ。
いつもよりも多く薬を摂取したので、当分使う事は無いだろう。
パタン、と棚の扉を閉じた時――。
ガリッ、ゴリッ、ガリボリガリボリ……。
背後から変な音が聞こえて来た。
「トオル様?」
不審に思った私が振り返ると、口がもごもごと動いて何かを噛み砕いていた。そして、トオル様の喉が、ごっくん! という音と共に動いた。
何を食べたのか気になって近づく。
テーブルの上に広げられているお菓子の数々を目にしながら、トオル様の手元に置かれている黄色い包み紙に目を止める。
これは――。
以前、どこかで見た事のある物だと思っていると、トオル様が部屋の中をキョロキョロと見回した。
「どうかされたのですか、トオル様?」
一旦包み紙から意識を外してトオル様に声を掛けると――。
「…………でゅー?」
少し首を傾げながら、私を見てそう言った。
「………………」
沈黙。
でゅー? 今、トオル様は『デュレイン』では無く、『でゅー』と言ったか?
何も答えずにいると、目の前にいるトオル様は椅子から降りて、「でゅー!」と言って抱き付いて来た。
「………………」
いつものトオル様では有り得ない言動&行動に、私はらしくもなく固まった。
もしや……。
私は、足にしがみ付くトオル様を見てから、テーブルの上に置いてある黄色い包み紙を見やる。
……思い出した。
そう、あの包み紙に包まれていた飴は、ルルが以前毒薬草を持って来た時に、自慢げに見せていた『退行飴』だ。
舌打ちをしたくなった。
あの時は、そんな危ない飴を持って来るなと言って、ルルに持って帰らせたのだ。
なのに、ルルはこっそりとトオル様にあげたお菓子の中に1つ、退行飴を混ぜて入れたらしい。
あのバカ女っ!
トオル様が退行飴を食べたのが家の中――いや、私がいる前であったから良かった様なものの、もしも外を歩いている時に退行飴を食べていたとしたら……。
帰って来る途中に、退行飴を食べて4歳児になって、黒騎士も誰も付けずに1人で外を歩いているトオル様の姿を想像して、私はブルリと震えた。
後で、しっかりと説教をせねばなるまい。
そんな事を考えていた私であったが、足に縋り付いた透の声にハッと下を見る。
「でゅー、ここどこぉ〜?」
辺りを見回しながら、ピットリと自分にくっ付くトオル様。
足を掴むトオル様の小さな手をゆっくりと離してから、彼女の視線に合わせる様にしゃがんだ。
そして、ある事を確認する。
「トオル様。トオル様は、リュシーナ……リュシー達とお花畑に行ったのを覚えていますか?」
「うん。おぼえてるよぉ。りゅしーとおそろいの、おはなのかんむりつくってもらったのぉ〜♪」
「そうですか、良かったですね。それでは、その後の事は覚えていますか?」
「うぅん。おぼえてない」
ふりふり首を振るトオル様に、私は、ふむ。と頷く。
以前、4歳児になった時の記憶はあるらしい。
「ねぇ、りゅしーやじーく、それに、はーちぇるはぁ?」
どこにいるんだ? と聞いて来るトオル様に、「彼らは今、お仕事をしているんですよ」と言った。
「おしごと? それじゃ、いま、あえない?」
「はい。残念ながら」
「そっかぁー」
しょぼくれるトオル様。花畑で彼らと遊んだのがよっぽど楽しかったのか、頷くも体全体で『寂しい』と訴えかけていた。
そんなトオル様の姿を見て、私の心は何故かざわついた。
「……トオル様。この前は、私がお仕事でトオル様と一緒にお花畑に行けませんでした」
ですから、今日は私と何処かに行きませんか? と聞くと、
「でゅーが、とおるとあそんでくれるの?」
きらきらと輝く大きな瞳が私を見詰める。
「えぇ。今日は1日、トオル様と一緒にいます。トオル様が行きたい所へ、このデュレインが何処へでもお連れします」
「わぁ〜い! でゅー、だぁ〜いすきぃ♪♪」
ガバッと抱き付き、舌っ足らずな言葉で私に大好きだと言うトオル様。
私の頬は自然に緩む。
私が自然に笑えるのは……多分、この人と共にいる時でしかない。
小さな透の背にそっと腕を回して抱きしめ返しながら、「私もトオル様が大好きです」と呟いた。
「それではトオル様。何処へ行きたいですか?」
「えぇーっとね……」
そう聞くと、トオル様は何故かモジモジし出した。
何だ? トイレに行きたいのだろうか?
「とおる、おなかすいちゃった」
トイレでは無かったらしい。どうやら、私にお腹が空いたと言う事が恥ずかしかったみたいだ。
「あぁ、ちょうどお昼の時間ですものね。私が昼食を作るのもいいんですが……今日は外食にいたしましょうか」
家にいると、いつ誰が来るか分からない。4歳児で素直な反応を返すトオル様とゆっくり過ごすなら、家にいない方がいいと私は考えた。
「とおる、はんばーぐがたべたいです!」
はいはいと右手を上げて、はんばーぐ! と騒ぐトオル様。しかし、食べる時だけなぜ敬語?
「それでは外に行く支度をしましょうか」
私はハンガーに掛けてあった上着を取って腕を通す。そして、トオル様にも上着を着させると、自分の財布を持った。
私とトオル様が出掛けている事を紙にしたためて、テーブルの上に置く。
手を繋いで仲良く家から出る。
鍵を掛けてから、私はトオル様に目を向けた。
「いいですか、外では絶対に私の手を離しちゃ駄目ですよ?」
「わかった!」
真剣な顔をして頷くトオル様に1度微笑み、手をギュッと握り直す。
「では、行きましょうか」
「れっちゅごー」
不思議な掛け声を出して、トオル様は握った手を振り回しながら歩きだした。
こうして、私とトオル様の楽しい一時が始まった。