「あの……ちょっと離れてください」


 人通りが少ないベンチの上で、私はアレクさんの胸に手を当てて、これ以上近付いて来ない様に力を込めていた。
 先程『M』のスイッチが入ってしまったらしいアレクさんは、椅子の背に両手を当てて、私をその腕の中に閉じ込めていた。
 目元をうっすらと赤く染め、薄く開いた唇からは熱い吐息がこぼれ落ち、潤んだ瞳で私を見下ろすその姿は――目を逸らせないほど色っぽくて……。


 子供達が賑わう遊園地内で、不健全な雰囲気を全開に醸し出していた。


 誰かに助けて欲しいが、こんな場面(はたから見たら、恋人同士のじゃれ合い)を見られたら見られたで、それは恥ずかしい。
 どうしたらいいのぉ〜!?
 顔を真っ赤にさせ、俯きながら両腕に力を入れていると、頭上でクスリと笑う声がした。
 何を笑うか、と顔を上げれば……惚れぼれするほど整った彼の顔が目前に迫っていた。
「ひゃっ!?」
 驚いて、彼を押さえていた手を緩めてしまった。

 目の前の御仁は、その隙を見逃すはずはなかったのです!

「赤くなって……可愛いね」
 彼はそう言うと、突っ張っていた腕を片手で一掴みし、一瞬にして唇を合わせてきた。
 唇に伝わる、温かくて柔らかな感触。
 最初はただ押し当てられているだけであったが、次第に下唇やら上唇を食まれる。
 あまりの事に目を閉じられずにいると――髪の毛と同じ色の睫毛を伏せたまま、チュッチュチュッチュと人の唇にキスをしていた人が、スッと目を開けた。


「その小さくて可愛いお口を開けて、琴海ちゃん」


 フッと笑い、唇を合わせたままそんな事を言うアレクさん。
 耳にまた、チュッと言う音が聞こえて来た。


 ん? 『M』のスイッチが入ったはずなのに、なんか、今のアレクさんは『M』じゃないような……。


 そんな事を思うも、今の私の思考は限りなく鈍くなっていた。
 ふわふわとした気持ちいい気分のまま、私はアレクさんの言われた通りに、合わせていた唇を開ける。
 私が従順に口を開けた時――アレクさんは顔の向きを変えると、背凭れに付いていた手を私の体に回した。
 グッと近づくアレクさんの逞しい体。
 甘いような、清涼感がある香水の匂いを吸い込みながら、ゆっくりと瞳を閉じた時――。


「ねぇ、喉が乾いたから飲み物買ってきて!」


 後ろから聞こえて来た声に、私は脊髄反射のような速さでアレクさんの頭を掴み、どこからそんな力が出たのかは分からないが、彼の頭を膝の上に無理やり押し付けた。

 今……聞こえて来た声って……。

 むご!? と変な声が膝上から聞こえて来たのだが、今は無視です。
 人の体に腕を回した状態で、モゾモゾと動くアレクさんの頭を両手で押し付けたまま、私はそぅっと後ろを振り向いてみた。
 私が座っているベンチの真後ろに、背を合わせた感じで同じベンチが置いているのだが――そこに向かって、とあるカップルが歩いて来る。
 歩いて来るカップルの女性の方を見た私は、盛大に顔を引き攣らせた。


 何で……あの美女軍団のリーダーがここにいるのぉ!?


 そう、アレクさんと少しでも御近付きになろうと、日々彼の周囲を取り囲む美女軍団のリーダー的存在の人が、パッと見冴えない男性を連れて、こちらに歩いて来るではないか!!
「ぷはぁっ。……どうしたの? 琴海ちゃ――わぷ!?」
 驚きで緩んだ手の下から顔を覗かせたアレクさんに、私は帽子を急いで脱ぐとそれを無理やり被せた。
 そして、彼の顔を包む様にしながら私の膝に押し当てて、なるべくアレクさんの顔が見られないようにした。
 人が今の私達を見れば、彼氏がベンチの上で彼女の膝の上で寝ている――様に見えるだろう。
「琴海ちゃん?」
「声を出さないでください!」
 目深に被せられたニット帽を捲り上げ、きょとんとした顔で見上げてくるアレクさんに、私は小声で注意する。
 すると、アレクさんはニット帽を被り直すと、ポスンと私のお腹に向かって顔を押し付けてきた。

 ――むぅ?

 じりじりとお腹に向かって押し付けてくる彼の顔をガシッと掴み、それ以上の進行を防ぐ。
 なんて言うか、落ち着かない。
 これ以上進まれれば、股間に彼の顔が……!!
「ちょ、アレクさん!」
「………………」
 小声で抗議しても、無視された。
 しかも、私の体に回されていた腕に力が入り、しがみつかれる様な感じになった。

 ちょっと、本当になんなんですか!

 グググと、地味な攻防戦を繰り広げていると――後ろのベンチにドカリと座る衝撃が、背中合わせになったベンチごしに伝わってきた。
「清美さん、何を飲みたいですか?」
「は? そんな事もいちいち言わないと分かんないわけ?」
「す、すみません」
「ったく、使えないわね……。いいわ、冷たいレモンティーでも買ってきて」
「えっ!? あのぉ〜、レモンティーはここでは売ってないみたいですが……」
「もう! 何でもいいから、早く買ってきてよ!」
「はいぃ!」
 慌てたような足音が遠ざかっていくと、後ろからチッと舌打ち音が聞こえてきた。
「ホント、使えないヤツ。お金を持ってるからって付き合ってあげたけど……ここまでね」
「………………」
 聞きたくないけど聞いちゃった言葉に、私は心の中で、怖っ!? と叫んでいた。
 美女軍団のリーダーこと、花田さん(本名は花田清美)が会社にいる時とは全く違う態度に驚きが募る。
 美人で優しそうな外見に反して、中身はちょー我儘お嬢様みたいだ。
 性悪そうな花田さんの実態を知った私は、ハタと動きを止める。


 もしも、後ろに私とアレクさんがいるって知られたら――。


 次の日、会社で虐められること確実である。
 女豹達(美女軍団)のギラギラとした視線を思い出す。
 ドクドクと、かつて無いほどの速さで動く心臓。
 アレクさんと一緒にいる時の、トキメクようなものとも、お化け屋敷にいた時の怖かった時の心臓の動きとは違う――キューッと締め付けられるような……痛みが伴うものだった。
 俯き、思考が悪い方へと沈みそうになった時。


 そっと、頬に大きくて温かい手が添えられた。


 驚いてアレクさんを見れば、アレクさんは声を出さずに口をパクパクと動かして『大丈夫だよ』と私に伝えると、ニット帽を深く被り直し、膝の上から顔を起こした。
 そして、私の手を掴むと、スッと立ち上がる。
 アレクさんはチラリと後ろを振り向き、花田さんが私達の方を見ていないのを確認すると、私をすっぽりと包み込む様にして、肩を抱きながら歩き出す。
 未だ忙しなく動く心臓。
 アレクさんの腰辺りの服をキュッと掴めば、肩に回された手に力が篭る。
「ここまで来れば、大丈夫だろう」
 人がざわめく大通りに出た時、アレクさんがそう言った。
「はぁ……まさか、こんな所であの人に会うとはね」
「ビックリしました」
「このままここにいれば、また会うかもしれないな」
「そうですね」
「そうだ。琴海ちゃん、これから俺の家に来ない?」
 このまま帰るのも詰まらないし、DVD鑑賞でもして過ごさない? と私を見下ろして聞いてくる。

 もう少し……アレクさんと一緒にいたいな。

 そう思った私はコクリと頷き、彼の胸元に頬を寄せる。
 初めて取った、私の甘えるような行動に、一瞬アレクさんは目を見開いた。
 それから直ぐに、蕩けるような瞳で私を見詰めると、更に体を密着させるように私の体を引き寄せる。
 キュンと高鳴る私の心。


 初デートは、いい意味でも悪い意味でも、ドキドキの連続であった。


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