私はおにぎりを食べながら、資料室での事を振り返る。
 あの後――。


 ドM宣言をしたクロフォードさんを呆けた顔をして眺めていた私であったが、床に散らばるファイルを目にした私は、自分が何をしに此処に来たのか漸く思い出した。
 掴まれていた腕を振り払うようにして立ち上がり、散らばったファイルを急いで拾い集め、それをダンボールの中に入れ直す。
 途中、クロフォードさんも手伝ってくれたので、彼にお礼を言いつつ、この資料室に置いてあるファイルも探し出して、ダンボールに入れる。
「あの、手伝って頂き有り難う御座います。助かりました」
 私はペコリと頭を下げてから、ダンボールを抱えて部屋から出て行こうとしたのだが、


「ねぇ、琴海ちゃん。――俺達、付き合わない?」


 ドアの前に立ち塞がり、ヒョイと私の手の中からダンボールを取り上げたクロフォードさんが、そんな事を言った。
 どうして私の名前を? とか、あんなに重いダンボールを軽々と持ち上げるなんて、やっぱり男なのね――とか、そんな事を思っていたのだが、口に出した言葉と言えば。

「て、丁重にお断り致します」

 で、あった。
 人生初の告白であるが、それを速攻で断る私。
 数時間前の私であれば、舞い上がって即OKしていたと思う。
 何せ、今の今まで自分から告白しようとしていた相手なのだから。
 しかし、先程から彼の知られざる本性を見たり聞いたりしていると、『これは私の手には負えない人』だと気付いたのだ。
 クロフォードさんには、私の様な凡庸な人間ではなく、SMで言えば『女王様』の様な人が必要なのだと思った。
 なのに……。


 なにゆえ私をご指名で!?


 もしかして、私をからかっているのかしらと思いながら彼を見上げると――そこには、真剣な顔をしたクロフォードさんがいた。
 彼の瞳には、また、あの甘く蕩けそうな熱がともっていた。
「……どうして駄目なの?」
「えぇっと……それは、それは……」
「それは?」
 ダンボールを持ったまま距離を縮めてくる彼に、私はふらつきそうになりながら後ずさる。
 驚いて何も言えない私に、クロフォードさんがふっと笑った。
「ねぇ……付き合おうよ、琴海ちゃん」
 身を屈め、私の耳元で囁く甘い声。


 ゾクゾクした感覚が、身体中を駆け巡る。


 身を竦めて下がれば、私が離れた分の距離を更に詰められ、彼の整った綺麗な顔が間近に迫っていた。
 背中に、資料棚の冷たい鉄の塊が触れる。後ろはどうやら行き止まりらしい。
 驚いて目を大きく見開けば――彼は顔を少し傾け、ターコイズブルーの瞳を閉じて唇を寄せて来た。
「琴海ちゃん……」
 彼の熱を含む吐息が、私の唇に掛かる。
 キス……される。
 キュッと目を閉じた私は――。


 パンプスの尖った先で、彼の弁慶の泣き所(向こうずね)を思いっっっきり蹴り付けた。


「うがぁ!?」
 ガスッ! という鈍い音と共に、ピタリと動きを止めたクロフォードさん。
 まさか、蹴り付けられるとは思いもしなかったのだろう。中腰のまま固まっている。
 私は、緩んだ彼の腕の中からダンボールを奪回すると、蟹も顔負けの素早い横歩きで彼の横を通り過ぎる。
 火事場の馬鹿力とはこの事であろうか。
 私は重いダンボールを持ったまま、片手でドアを開け放つと、それから両手でダンボールを持ち直して素早く廊下に躍り出た。
 クルリと資料室に向き直り、蹲って足を押さえているクロフォードさんに声を掛ける。
「私、貴方とは付き合えません。……価値観が違い過ぎるので、上手くやっていけないと思うんです」
 それでは、と言ってからペコリと頭を下げて、両手が塞がっていた為、足でドアを閉めた。
 キィ……パタン。
 ドアが閉まる乾いた音が、静かな廊下にいやに響く。
 私はすぅっと深呼吸すると、急いでその場から離れるべく、持てる力を振り絞って長い廊下を歩いて行った。
 その後は、残りの資料を全て集めて部長の元に届け、むくんだ足を揉みつつ、就業時間まで頑張ってお仕事をした。
 暫く経ってからフロアに戻って来たクロフォードさんは、涼しい顔をしながら仕事をしていた。
 彼が、何度も部屋の中央から私に向けて、熱い視線を向けていたのは分かっていた。が……あえて無視していた。


触らぬ神に祟りなし、である。


 ミネラルウォーターをゴクゴクと飲みながら、はふぅ〜と息をつく。
「本気で彼の事を好きになる前に分かって……良かった」
 もしもクロフォードさんの本性を知らずに告白していたら、えらい事になっていた。

 私の恋愛に対する淡い夢が、壊されてしまう!

『M』だからイヤって言うわけじゃあないけれど、彼は私が理想とする彼氏ではない事だけは、確かである。
 彼じゃなくても、他にカッコよくて彼女無しの優しい男性はいるはずだ。……多分。
 その人に私は告白をしよう。うん、それがいい。

 クロフォードさんの事は、もう忘れよう。

 と、そんな事を思っていた私であるが……。
 世の中自分の思い通りに物事が進まない事を、翌日学ぶ事になる。


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