「す……すみませんでした」
 赤く腫れた頬を摩っている上司に頭を下げる。
「もう大丈夫だから、気にしないでくれ」
「そういう訳には……」
 鞄を両腕で抱えながら、俯くようにして項垂れる。
 だって、上司の顔に鞄の角をメリ込ませてしまったんだもん。
 初日からこんな失態をしてしまい、顔を上げられなかった。
 そんな、しょぼくれる私の頭上から苦笑が聞こえてきて――頭に大きくて暖かい手が、ポンッと載せられる。
 そぉ〜っと顔を上げれば、少しバツの悪い顔をしたクロフォードさんがそこにいた。
「いや、ホント、琴海ちゃんには感謝しているんだ」
 人の頭を撫でながら、クロフォードさんは肩を竦める。
「まさか、あんな人が大勢いる所で『M』を曝け出す訳にはいかないからね」
「………………」
 そう。鞄の角が頬にめり込んだ後、ちょっと“おかしくなった”クロフォードさんを、誰も居ないベンチの方へと引摺るようにして連れ込み、時間を掛けて正気に戻した私。
 え? どうやって彼を正気に戻したのかって?
 それは……。


 企業秘密です。


 と、いうか……皆様のご想像にお任せいたします。はい。
「そういう訳で、これ以上謝罪は必要ないよ」
 彼はそう言うと、両腕を上に伸ばして「うぅ〜んっ」と伸びをした。
「さてと……それじゃあ、それそろ行きますか」
「あ、はい」
 ベンチから立ち上がったクロフォードさんに習い、私も立ち上がる。
 それから、これから行く梶原商事の事を歩きながら説明しようとしたら――。

「あぁ、別にそんな事はいいよ」

 と、言いながら歩き出す。
「え? あの、いいとは……どういう意味で……?」
「ん? あぁ、今日は梶原商事さんには行かないから、いいよ――っていう意味だよ」
「は?」
「いやさ、普段会社にいると、周りが騒がしくて琴海ちゃんとゆっくりと話せないじゃないか」
「はぁ、そうです……か?」
「だから、ゆっくりと琴海ちゃんと過ごせる時間が欲しくて、梶原商事に行くっていう事にしておいたんだ」
 クロフォードさんはそう言うと、鼻歌を歌いながら目的地からドンドン逆方向へ歩いて行く。
 慌てて追い掛けて行けば――クルリと振り向いたクロフォードさんが、私の右手を取って、そのまま歩き出した。
「ちょ、あの、手……」
「それよりもさ、琴海ちゃんケーキとか好き?」
「へ? ケーキ……ですか?」
「うん、そう。ここから少し離れた場所にある『デュアリーネ』って言うケーキ屋さんなんだけど」
 奢るから行かない? という言葉に、一瞬、手を繋がれているという事実も忘れ、ぐらりと私の心は揺れた。
 だって、そのケーキ屋さんは私が前々から気になっていたお店で、常々入ってみたいと思っていた所だった。

 本心は、行きたかった。美味しそうだし。奢りだし。

 でも、今は仕事中なんだから! と頭を振って、甘〜い匂いの誘惑からなんとか抜け出し、「いえ、食べません」と断った。
 そんな私を見たクロフォードさんは、ちょっと残念そうな顔をするも、直ぐに元の顔に戻り、「じゃあ、今噂の〜」とか言って、梶原商事に一向に向かう気配がない。
「あのぉ、クロフォードさん? 梶原商事には……」
「ここだけの話、梶原商事さんに、今日行く予定は無かったんだ」
 ニコっと笑うクロフォードさん。
「だって、梶原商事に行くというのは、琴海ちゃんとデートをする為に付いた嘘だし」
「――嘘?」
「はぁ〜。俺、こんなにゆったりと過ごすデートって初めてだよ」
 と言い、更に彼はこう言った。


「今日は1日、琴海ちゃんとゆっくりと過ごしたいから、仕事は無し!」


 は!? と驚く私に、クロフォードさんは更に「だから、ボードに『直帰』って書いてきたんだ。――あぁ、心配しないで? 琴海ちゃんの所にも『直帰』って書いておいたから」と言う。
「クロフォードさん! そんな事したら駄目じゃないですか! そんな事をしても、私、全然嬉しく有りません」
「え、そうなのか? 今までの彼女達なら、喜んだけどなぁ……。 それに、誰も俺達の事を見てないんだよ?」
 悪怯れる様子もなくそう言った瞬間――。


 私の中で、プチッと何かが切れる音がした。


 会社の人達に仕事をしていると見せ掛けて、外に出て遊ぶ。
 それを、今までの彼女達の様に、私も喜ぶとでも本気で思っているらし。

 とんでもないわ!

 そんな、彼女達と同類に思われた事に頭が来た。
 それに、誰も見ていないと思っても、意外な時に、意外な場所で、誰かに見られる――という事がある。
 誰も見ていない時だからこそ、きちんとしなければならないと私は思う。
 私の手を繋いでいたクロフォードさんの手を、私は振り払う様にして離すと、驚くクロフォードさんに「私、会社に帰ります」と言って踵を返した。

 ゆっくりとしたいのなら、1人でして下さい。私は、会社に帰って仕事の続きをしますので!

 1人で公園の出口に向かって歩き出した私に、「こ、琴海ちゃん!?」と慌てて後を追ってくるクロフォードさん。
 クロフォードさんは「どうしたの? 俺、何かした?」と聞いてくる。


 したから、私は怒っているのよ!


 眉間に皺を寄せ、黙々と公園の出口に向かって突き進む。
 その後ろを、クロフォードさんが少し困った顔をしながら歩いていた。
「ねー、琴海ちゃん」
「………………」
「ごめんね? でも、こうでもしなきゃ、琴海ちゃんとゆっくり喋る事も出来なかったし」
「………………」
「琴海ちゃん、ホントごめん。……許して?」
 人の顔を覗く様にして、私に許しを請うクロフォードさん。

 ……美女軍団がこの光景を見たら、私、殺されるかもしれない。

「ねぇ、何か喋ってよ」
「………………」
「あっ、ちょっと待って、琴海ちゃん!」
 私はプイッと顔を逸らして、更に歩く足を速める。
 慌てて後を追うクロフォードさん。
 何故私が怒っているのか、本当に分かっていないクロフォードさんに振り向き、キッと睨み上げる。
「私は、仕事をする為に貴方の下につきました。決して、貴方の暇つぶしかなにかに付き合う為ではありません…………って、何笑ってるんですか」
「え? あ、いや……琴海ちゃんの怒った顔が、すごく可愛いなぁーと思ってね」
 そう言って、なでなでと頭を撫でられた。まるで小さな子供の様に。
 そりゃあ、190pのクロフォードさんにしたら、156pの私なんか子供の様に見えるかもしれないけど……。
「もう少し冷めた目で見てくれるなら…………もっと嬉しいな?」
 頬を上気させて私を見下ろしてくるクロフォードさんに――。


 再度、私の中でプチッと何かが切れる音がした。


 プリプリと怒る私の後を歩くクロフォードさんは、終始私のご機嫌取りをする様に「琴海ちゃん、許して?」とか「ねぇ、何か喋って?」と声を掛けてくる。
 それでも暫く無視し続けていると、彼も徐々に何も言わなくなった。
「………………」
「………………」
 無言のまま歩いていると、私の気持ちはどんどん下降して行く。
 そぉ〜っと後ろを見れば、クロフォードさんは俯きながら私の後を付いて歩いていた。

 なんなんでしょう、この居た堪れない気持は……?

 私の心がチキンなのか?
 今まで「琴海ちゃん、琴海ちゃん!」と、人の周りをうろつきながら『琴海ちゃん』を連呼していた人が、急に口を噤んで暗い顔をしながら私の後を歩いているのを見ると、何故か私が苛めている様な気分になる。

「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………はぁーっ」

 何時までも怒って、無視し続けるのも、そろそろ止めようかと思った時――急に後ろから溜息が聞こえてきた。
 ピタリと足が止まる。
 私の子供っぽい態度に…………呆れられた?
「あ、あの! クロフォードさ…………」
 慌てて後ろを振り向き、彼に誤ろうとして――固まった。
 彼は右手で胸元を握り締め、はふぅ〜っと艶っぽい息を吐き、うっとりとした瞳で私を見詰めてこう言った。


「…………放置プレイも、なかなかいいモノだね? 琴海ちゃん」


 言葉が出ないとは、この事だろう。
 私が悶々と悩んでいた時、どうやら彼は『無視』という『放置プレイ』に喜んでいたようである。

 私は、ガックリと力が抜けた。

「え? あれ? どうしたの? 琴海ちゃん」
「いえ……何か、ちょっと疲れただけです」
 そう、ちょっと疲れたの。


 私のやる事なす事のすべてが、クロフォードさんを悦ばせる事に繋がるらしい。


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