公園から出た私達は、クロフォードさんが受け持っている何件かの契約会社に出向いていた。
 もちろん、その中には会社を出てくる為に口実に使った『梶原商事』も入っている。
 勤務時間は、仕事をするための時間なんですっ! 遊ぶ為の時間じゃありません!! と説教をして、渋る彼に仕事をさせたのだった。


「琴海ちゃん、お腹空かない?」


 最後に行った会社のロビーを出て、ふぅーっと息を吐き出した時にそんな事を言われた。
 携帯の時計を見れば、既に6時半を過ぎていた。
「あ、そういえば……」
 例の美女軍団からの刺々しい視線に当てられ、お昼ご飯があまり喉を通らなくて半分以上残していた私は、言われてお腹に手を当てる。
「お腹、空きました」
 今まであまり気にならなかったのに、言われたら猛烈にお腹が空いてきた。
 キーボードに、クロフォードさんが直帰と書いてくれたので、もうこのまま帰ろうかなと思った時、隣を歩く彼に「ねぇ、琴海ちゃん」と声を掛けられた。
「はい、何ですか?」
 隣を歩く人が自分より凄く大きい為、首が痛くなるくらい見上げれば……にこーっと、笑顔全開で笑うクロフォードさんがこう言った。


「琴海ちゃん、これから一緒に夕食でも食べに行こうよ!」


 そう言うと、私の手を取り何処かへと歩き出す。
「え? あの、私は――」
「何が食べたい? フレンチ? イタリアン?」
「いぇ、私は家で」
「あ、中華も捨てがたいよねぇ」
「あ、あの!」
「ん? 何? 琴海ちゃん」
「えっと……せっかく誘って頂いたのにすみませんが……疲れたので、私は家に帰って1人で食べ――」
「家で? それじゃあ、琴海ちゃんの手料理が食べられるって事!?」
「いぇ、そうじゃなくてですね……」


 人の話を全く聞かないクロフォードさんに、頭が痛くなってきた。


 私は眉間を揉みながら、もう1度彼を見上げた。
「あのですね? クロフォードさん。私は家で1人でゆっくりご飯を食べるのが好きなんです。それに……私は料理が不得意で、クロフォードさんが家に来ても期待する程のような料理をお出しすることが出来ません」
 遠まわしに、「貴方と食事をするつもりはありません」と言ったつもりだったのだが――。
「あっ、そうなの? じゃあさ、琴海ちゃん。俺の家に来て食べない?」
「は?」


 どうやら、私の気持ちはちっとも彼に伝わらなかったらしい。


「こう見えて俺、料理得意なんだ。期待してくれてもいいよ!」
「いや、あの、だから私は帰りま――」
「琴海ちゃん」
「は、はい」
 これ以上クロフォードさんのペースに流されてなるものかと、繋いでいた手を離そうとした時――ピタリと歩みを止めたクロフォードさんが振り向く。
 何を言われるのかと、緊張した面持ちで見上げる私に、真剣な表情で私を見下ろすクロフォードさんがゆっくりと口を開く。
「琴海ちゃんと、どうしても一緒に食事をしたいんだ。だから、少しの時間だけでもいいから……」
 繋いだ手を1度解かれたと思ったら、自分の指に細長くて綺麗な指が絡めるように繋がられ――。


「琴海ちゃんのこれからの時間を……俺にちょうだい?」


 熱く掠れた声で名前を呼ばれ、甘くて、少し艶を含んだターコイズブルーの瞳に、目が釘付けになる。
 絡められた指先から、体全体に熱が発生する。
 多分、『これからの時間』=『ご飯を食べる時間』の事を言っているのだろうが……。
 一瞬、プロポーズ? って思ってしまった。
 言葉と態度が紛らわしい。

 ――卑怯よっ!

 バッと顔を下にむけて、私は心の中でそう叫んだ。
 だって、だって……私にとって、クロフォードさんの顔って超ドストライクなんだもん!


 そんな顔で見られたら……彼の本性を知っているのにグラついてしまうぅぅ〜!!!


 琴海! ここでグラついちゃダメよ!! と心の中で自分に言い聞かすも……気付けば、膝を屈めて私の顔を見詰めるクロフォードさんに――。
「いいよね? 琴海ちゃん」
「……はい……」
 自分の励ましも虚しく、アッサリと「はい」と頷いていた私。
 こうして、私はクロフォードさんのお宅に行くことが決定した。




「琴海ちゃん、そこのソファーにでも座って待ってて」
「あ、はい」
 クロフォードさんの家に上がると、まず広いリビングに驚く。
 床は木目調のフローリングで、ガラスのテーブルと黒革のソファーが置かれている部分にだけ白くてフカフカの絨毯が敷かれていて、大型のテレビとCDデッキ、それに、海外の小説などが置かれた本棚以外は何もなかった。
 生活感がまるで感じられない部屋の中で、辺りを見回しながらポカンと立ち尽くしていると、
「うひゃぁ?」
 右の掌に濡れた何かが押し付けられ、ビックリして後ろを振り向けば――。
「ワン♪」
「…………黒ラブちゃん?」
 尻尾をフリフリ揺らす、黒のラブラドール・レトリバーが私を見上げていた。
 しゃがんで頭をナデナデすると、嬉しそうに目を細め、それからバタリと倒れて仰向けになってお腹を出し、「お腹も撫でてぇ〜」と言うような目で私を見詰める。
 その仕草が可愛く、笑いながらお腹を撫で上げれば、黒ラブちゃんはウットリと眼を閉じて尻尾を床に打ち付けていた。

「エルダーだけズルイな」

 黒ラブちゃんのお腹を撫でていたら、不機嫌そうな顔をしたクロフォードさんが、台所から体を半分だけ出してこちらを見ていた。
 私服に着替えたクロフォードさんは、今、夕食の準備中である。
「あの、このワンちゃんの名前ってエルダーって言うんですか?」
「そうだよ。――って、ごめん。家に来る前に犬がいる事を言うの忘れてた」
「あぁ、大丈夫です。私、ワンちゃん大好きなので」
 そう言ってから、「ね〜? エルダー君」ともう1度お腹を撫でれば、クロフォードさんは「……ズルイ」と恨めしそうに呟きながら台所へ戻って行った。
 その姿を見た私は、ちょっぴりだけ緊張が和らいだ。


 クロフォードさんの「料理が得意」と言う言葉は本当であった。
 ガラス製のテーブルの上には、ほかほかと湯気を立てる美味しそうなおかずが、数種類置いてある。
 手前から――だし巻き卵、肉じゃが、さばの味噌煮 、筑前煮、ほうれん草のおひたし、大根の沢庵漬け、長ネギと油揚げが入った味噌汁……等々があった。
 アメリカ人だから、ハンバークとかステーキとかが出てくるのかと思っていたら、純和食料理の品々に目が丸くなる。
「日本料理を作れるんですね、クロフォードさん」
「うん。あちらに日本人の友達がいて、そいつから色々教えてもらったんだ」
 クロフォードさんはそう言いながら、緑茶が入った湯呑茶碗を私の前に置いた。
 そして、水産系の会社に行った時に貰ったという、イカの塩辛を冷蔵庫から出してきた。
「俺、この頃イカの塩辛にハマってるんだ」
「…………そうですか」
 イケメンの外人さんが、イカの塩辛を食す……人の嗜好をとやかく言うつもりはないが、なんか不思議な光景だ。
「さっ、食べて食べて」と言うクロフォードさんに「いただきます」と言ってから、私は彼が作ってくれた料理を食べだした。
 あまりの美味しさに顔が緩む。
 私のその表情を見て、クロフォードさんはホッとしたような表情をした。

 それ以降、私達はたわい無い話しなどをしたりして盛り上がっていた。
 そして、時間はあっという間に過ぎていく。



「あっ、もうこんな時間なんですね」
 ご飯を食べ終わると、クロフォードさんの子供の時の話をお茶を飲みながら聞いていた。
 楽しい一時というものは、本当にあっという間に過ぎてしまうもので――ふと、時計に目をやれば、時刻はもう11時を過ぎていた。
「すみません、こんな遅い時間までおじゃましてしまって」
 私が頭を下げると、「こちらこそ、こんな遅い時間まで引き止めてしまって悪かった」と謝ってきた。
 家にまで送ってくれると言うクロフォードさんに、この時間ならまだ終電に間に合うので大丈夫ですと首を振る。
 ご飯美味しかったです。ご馳走様でしたと頭を下げてから、「さて、帰りましょ」とバックを取ろうと手を伸ばしたら――。

「待って、琴海ちゃん」

 伸ばした手を、横から伸びて来た大きな手に突然掴まれた。
 ビックリして顔を横に向ければ、苦しそうな表情をしたクロフォードさんがいた。
「クロフォードさ――きゃぁっ!?」
 一体どうしたのかと彼に声を掛けようとしたら、突然抱きしめられた。
 なななな、何!?
 うきゃぁ〜っ。と心の中で叫びながらもぞもぞと彼の腕の中で動くも、彼は離す気がないらしい。


 私の肩と腰の辺りに、クロフォードさんの腕がガッシリと巻き付いていて離れない。


 クロフォードさんの顔が私の首筋付近に置かれていて、柔らかなプラチナシルバーの髪が、私のうなじを擽(くすぐ)る。
 ぎゅぅぅっと、痛いぐらいの力で抱きつかれ、「んぅ……やぁっ……苦しぃ……」と言えば、少しだけ腕の力が弱まった。
 急に何なのぉ〜? と涙目になっていると、クロフォードさんがハァっと溜息をつく。
 そして、私の体に回した腕を外さないまま、体だけを少し離して私の顔を覗くようにして見詰める。
「……琴海ちゃん。俺、君のことが好きなんだ」

 そう言うと、肩に回していた腕を外し、そっと……私の右頬を大きな掌で包み込む。

「遊びとか、そう言うんじゃない」
 確かに、初めはそんな軽い気持ちで言っていたんだけどね、と苦笑する。
「俺の周りにいる女性って、仕事中でも誘えば喜んでついて来る人がほとんどでさ…………琴海ちゃんのように、俺に向かって真剣に怒ってくれる人って……初めてで……」
 そんな琴海ちゃんに惚れたんだ、と言われた。
 間近にめちゃくちゃ好みな顔があって、それに「惚れた」と言われた私の思考は停止する。
 ポカーンと口を開ける私に、クロフォードさんは更に顔を近付ける。

「……琴海ちゃんは、今、付き合っている彼氏とかいるの?」
 ふるふると首を振る。
「じゃあ、誰か好きな人がいる?」
 これも、首を振る。
「俺の事、嫌い?」
 嫌いではないので首を振る。
「じゃあ、どちらかと言えば好きな方?」
 まぁ、嫌いではないから……と、コクリと頷く。
「俺が作った料理、美味しかった?」
 うん。すっごく美味しかった。頷く。
「また食べたい?」
 頷く。
「デザートも食べたい?」
 大きく頷く。
「じゃあ、俺と付き合って?」
 大きく頷く。

 ――ん?

 頷いてから、あれ? と顔を上げれば――ぱあぁぁぁぁっと、明るい表情をしたクロフォードさんが目に入った。
「あ……いぇ、今のはまちが――むきゃっ!?」
「本当!? やったぁー!!」
 むぎゅぅぅぅっと、又しても抱き締められる。


「琴海ちゃん……俺、一生大事にするから!」


 クロフォードさんはそう言うと、私の顔を持ち上げ、その整った綺麗な顔を近付けてきた。
 初めて自分の唇に触れる他人の感触に、体が硬直する。
 恋愛初心者な私は、キスも初めてなわけで……。
「んっ!」

 なのに――。

「琴海ちゃん……」
「んんん……ふぁっ、ん……んむぅ」
 私のファースト・キスは――濃ゆぅ〜いディープキスであった。
「……ん……もぅ、やぁ……」

 小説や漫画などでは、ファースト・キスはイチゴ味とかレモン味とか、果物っぽい味が書かれているのがほとんどであったが――。

「っっはぁ……」
 長く重なっていた唇が、漸く離れる。



 私のファースト・キスは、だし巻き卵の甘い味であった。


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